東京でいちばん美しいのは、やはり秋だと思う。

秋の東京は、街じゅうが銀杏の黄に染まる。澄んでいて明るいその色に、枝葉の間から差す陽が重なり、この土地は金色の膜をまとったように見える。木の下では人々が相変わらず足早に歩いている。忙しく、それでも秩序がある。列車は定刻に走り、信号は何度も色を変える。街は何も変わっていないようで、ただ静かに秋の色へ着替えている。

秋の曲がり角を曲がり、静かな路地へ入ると、夏の熱気はもう消えている。これがいわゆる秋高気爽なのだろう。夏の台風は過ぎ、激しい暑さもようやく収まった。盛夏の落ち着かなさから解放され、この街を静かに歩き、考えられるようになる。

時が流れると、銀杏も満身の金色の鱗を少しずつ脱いでいく。晩秋が来る。

一年のなかで、気温がいちばん心地よい時期だ。すべてがちょうどいい。

秋葉原——とても美しい地名だ。

ここから総武線に乗り、浅草橋で降りて北へ進む。上野を越えると、もう一つ美しい地名に出会う。日暮里。魯迅の文章にも登場した名だ。日暮里からさらに北西へ、東京の密集した街区を抜け、荒川区の河岸まで歩くと、視界がふっと開ける。

人口の密集する東京で、こうした自然はことさらに貴重に思える。

水面はきらめき、川はただ静かに流れている。いくつもの曲がり角を抜け、やがて東京湾へ、さらに広い太平洋へと向かう。河口の近くでは水面はもうこれほど静かではなく、大きな工業船や遊覧船が行き交い、都市と港と海が交わる。それでも東京の川に沿ってゆっくり歩けば、この街だけの静けさを見つけられる。

岸辺に立って川を眺めていると、時間もきっとこうして流れるのだろうと思う。

音もなく、知らせもなく。

気がつけば、日本に来てからもう一年近くになる。

東京に来て最初の六か月は興奮の時期だ、とよく言われる。知らない通り、言葉、電車、人混み。すべてが新鮮だ。けれどその新鮮さが過ぎると、東京はだんだん味気なくなるのだという。

私はそうは思わない。

東京には世界一高い高層ビルも、世界一大きな広場もないかもしれない。世界でいちばん華やかな光があるとも限らない。この街は、何か壮大なもので自らを証明しようと急いでいるようには見えない。静かな路地、小さな駅、秋の銀杏の並木、ゆるやかに流れる川、暖かな黄色い灯りをともす店——そんな素朴でありながら品のあるものの一つ一つから、少しずつ東京が生まれている。

この街は、まるで熟成した酒のようだ。

最初の一口では、驚くほどとは思わないかもしれない。けれど時がたつほど、その味ははっきりしてくる。いつか、何が好きなのかをうまく言えなくなっているのに、かつては知らなかった駅名に親しみ、ある通りの夕暮れの姿を覚え、どの銀杏がいちばん早く黄になるかを知っている。帰りの電車が見慣れた川を渡るときには、言葉にしがたい親しささえ覚える。

『門外漢の東京』の一節を思い出す。

「東京での日々に飽きたなら、それはきっと自分の人生にも飽きているのだ。」

私が東京を好きなのは、世界に一つしかない景観がどれほどあるからではない。ここでは、平凡な日々そのものをゆっくり味わう価値があるからだ。

とりわけ秋には。

私は東京の秋を愛している。そして、秋の外側にある東京も愛している。

東京の道、川、街、せわしなく行き交いながらも秩序を保つ人々が好きだ。本当にここで暮らしてから少しずつ気づく、目立たない場所や細部も好きだ。

銀杏はまた黄になり、秋はまた来る。川も変わらず静かに東京湾へ流れていく。

私はただ、人生のこの時期にここに立ち、そのすべてを見ているだけだ。

私は東京を愛している。

Dialogue

考えを残す

質問や建設的な感想を歓迎します。メッセージは確認後に公開されます。

公開済みのメッセージはまだありません。最初の対話を始めてください。

メッセージは公開前に内容を確認します。